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みなぎりすぎて動揺しています。と、とりあえずタナッセだ!

2009年11月16日 00:45

こんばんは。いや、兎鹿ッセ、哀れッセ、ヘタレッセ、寝取られッセ、と活用系無限大な彼も衝撃なんですけどもね、
oumiさま「お気に入りは上位争いには食い込めなかったようですが。せっかくだから何かに使うか。ええと衛士で名無しの人は……死んでる人ぐらいになっちゃいそうな。」
て!か、彼ですかねモブの……。ほかにいたっけ死んだ人、いたっけ。ま、まさか……………。の、のんきに記事書いてる場合じゃ……でも続き書く、ね。とりあえず、ね。

原作プレイでグレオニー憎悪エンドは、簡単だし、できたんですけどね。でもそこでエピソード的につながりあるヴァイルイベントを起こそうとやっていた……からなんですけどね、ついついヴァイル愛情に転んじゃってですね。ヴァイルが可愛すぎました。なのでまた後手にされるグレオニーなのであった。気力いるんだってグレオニーについて書くの。

なのでかわりにタナッセについて語ってみようの回。雑談で放出して、自分なりにキャラクター消化しないとキット諸々がつくれないからだ……。だからモゼーラもやりたいのです。そして書いてみるとなにかしら上がるなやっぱり。愛でも友でも。
えりにーす様のタナッセ考察を読み返していて、すんばらしーなと記事に溢れる友愛ともどもひたってたのですけれども。

タナッセの詩作についていきなり興味わいた(笑)のは、「13歳当時のヴァイルは何故ごり押しして御前試合に出たのだろうか?」を考えるにあたり、タナッセ留学がきっかけのひとつではないか―タナッセ詩作と連想して色々回想見ていたからなのです。

タナッセが詩を披露してくれるのは「類いなき籠」でしょうか。

小さき鳥は啼き喚きたり、その類いなき籠の中で。
その籠を編み上げしは、栄光の組子。
その籠を染め上げしは、典雅の七彩。
しかれど哀れな高音は止むこともなく。
内より見えぬ煌きなれば。


小さき鳥は寵愛者ヴァイルを、レハトを差しており。
その美しい籠から出ることの出来ない彼らを哀しんでいるようでもあり。
だが、その恩寵の煌きは、自らには手に入らないもので、
それを知ることのない彼らに対する羨望も見て取れるようであり。

籠の中の鳥にはレハトも含まれはするだろうけれど、タナッセのヴァイルに向けた気持ちを強く感じる。
ヴァイルのための詩なのか。

籠の外から彼を見つめ、羨望と罪悪感を抱き。
籠の中には入れぬ自分へ屈折と諦観を滲ませて。

タナッセ、いい詩じゃねぇのこれ……お前のパッションを感じるぜ(今までちゃんと読んでなくてごめん)

「彼に詩作があって良かった」、「自己防衛としての修辞法」などえりにーす様のお言葉で。「祝福の徴」のタナッセなんかは、えり様が「あれが彼のニュートラルな状態」とかかれてましたが、たしかにフラットな感じですよね。あの感じのタナッセ、好きですね。
徴についてのルラントの盟約を法文の解釈っぽくやるところも新鮮である。「拡大解釈すればそうだが狭義ではこうだ」みたいな。法学部っぽい(笑)。

それで、「詩人の名」を見返していてですね。タナッセに、「名を明かすかこのまま続けるか、お前はどうすればいいと思う?」って聞かれたとき、「やめればいい」っていう選択肢選んだことなかったんですよ。彼のよりどころなのに、さすがにそりゃ可哀相でしょう。と思って。

だけど選んでびっくり。そこでのタナッセの台詞がとても良かった。

本当に読んでくれている者など、ほとんどいないのではないか。
こんな中で書く意味はあるのか。
そう絶望し、もう詩句を綴るのは止めようとも試みた。
だが、思い知らされる。
私はたぶん……書くことが好きなのだろう。
書かずにはいられなかった。
そして、ディレマトイという名を封じたとて、そのうち私はまた同じようなことを繰り返すだろうし、そうすれば、きっと私が誰だったのかなど、すぐ漏洩するだろうな。
巧妙に隠し通せるほど、私は言葉に対して器用ではない。
ヤニエ師はそこが面白いと言ってはくれたが。
まったく、我ながら何から何までどうしようもない奴だ。


やめられないと言った!
書くことが好きで、書かずにはいられなかった。
「巧妙に隠し通せるほど言葉に対して器用ではない。」
そう自嘲するけれども、タナッセ、それはどうしようもなくない。素晴らしいことだと思う……。

無闇に飾り立てて防壁を張って、辺りの顔色を窺うくせにそれに従えなくて、強気なくせに自信がなくて、結局弱い部分が丸出しで。


とユリリエはタナッセの詩作を評しますけれど、作品作るときにそれは気取ってられないですよね。
言葉に対して器用ではない、と言い切るタナッセの言葉に、彼の不器用な人柄と、詩作への誠実さや情熱が見て取れて素敵である。

日ごろ、敵対的な世界から自らを護る棘として使っていた言葉が、「王息であるタナッセ」から離れて「ディレマトイ」という名を得て、それまでの鬱憤を晴らすかのように自由に息づきはじめる。

弱さもコンプレックスも隠しては居られない。ユリリエの指摘ももっともだ。弱い部分が丸出しだけれども、それがタナッセが表現せずには居られなかったことなのだと思うと感慨深いです。

やはりそこは従兄弟同士なのか、ユリリエにも共通するのですが、「欺瞞を嫌う」という点。
ユリリエは社交辞令やらをテクニックとして自由自在には使いますけれど、それらを好きではない。「交渉に励み」で言っているように、ユリリエの言葉は基本的にユリリエの本心なのだと思います。

(欺瞞を嫌い、それを感じたときに鋭く突く彼女の言葉は痛快だからこそ、初期好感度「好意」に違和感ありありなんですけどね。「打算」「興味」「好意」の入り混じった結果の「好意」表示と思えばわかりますが、うさんくさくてな・失礼w)

人間には多かれ少なかれ、なにがしかの自己表現が必要なのだと思います。趣味や好きなことをやる、と置き換えてもいいかもしれませんが。方法は人によりけりでしょうが、タナッセにとっての自己表現は詩作であったと。

そしてディレマトイという名前であったけれども、それがタナッセと他者とのコミュニケーションの方法となった。作品が彼を助けてくれた。それまで断絶していた自己と他者、世界とを繋いだのだろうと思うと、ディットンでの彼の体験はいかなる感動だったのかと思う。

タナッセは「やめてもまた同じことをやるだろう」も言っていますが、おそらく彼は創作なしには生きていけない類の人間なのではないか、と思います。

現実世界にもそういう人っていますよね。
芸術方面でよく見る気がするのは作品として一般の目につきやすいからでしょうか。アーティストであったり作家であったり、ダンサーであったりと色々ですが。

この人はこんな内的世界をひとりで抱えたまま、表現する方法がなかったらきっと死んでしまうんじゃないか、という切実さを感じさせるような人たち。
作品じたいにもそうですが、その切実さに心うたれるのよな。
で、それをタナッセに感じてしまった私なのでありました……。
モゼさん、ディレマトイの本一冊頼む、わ。

「詩人の名」、いいイベントでありました。


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